ミイラ取りがミイラにならないよう

今月、部署が解散した。
コーポレート部門だった。
 
この4〜5人の部署の中には、
新卒1年目で入社した会社が分裂し、
転職してきた者もいた。
 
個人の集合体であるはずの組織が、
まるで一体の生き物のように存在し、
がん細胞のように、時として自壊する。
 
生き物に平等に死が与えられているように、
役目を終えた組織は、土に還り、
また新しい命を組成する。
 
生き物であるならば、
コーポレート部門はどんな生き物なのか。
 
カッコウのように、他の鳥の巣に卵を産み、
その鳥の卵を巣から落とし、他者に育ててもらうのか。
 
それとも、小判鮫のように張り付き、
ごみを食べ媚をへつらうことで、好かれ生き残るのか。
 
これは、適者生存のルールの話である。
ルールなき戦いは、判定がつかない。  
 
わたしが、組織というものに興味を抱いたのは、
先の大戦に関わるナチスアイヒマン裁判である。
(日本人にとっては意外なことだが、西欧諸国では「かの大戦」と指示するのは、
第一次世界大戦である。)
 
それだけ過酷を極めた次の大戦としての第二次大戦中、多くの障害者や、マイノリティたちを、強制収容所に送った罪を問われ、ナチス党員たちは、まさにルールの上で裁かれようとしていた。
 
しかし、アイヒマンは言う。命令に従っただけだと。
第一次大戦の多大なる債務に耐え切れないと感じていた国民の意思を受け、選ばれて、
誰の明確な意思でもなく、個人の意思を越えた抑えきれない怒りが、声なき少数派へと向けられた結果であるかのような口ぶりだった。
 
公務員的な組織の中で、命令には絶対忠実であらなくてはならない。
誰かの公僕となるということは、ある種、コーポレートの役目でもあるならば、
そう遠い話には聞こえない。
 
今回の部署の解散では、多くのものが、
自分の強みを活かして、新しい活躍を楽しみにしている。
 
解散の飲み会が終わり、1人帰る中、
部署の解散を悲しむ時、誰の顔が浮かぶだろうか。
 
誰かのためという曖昧で、成し遂げられなかった意志が、
亡霊のように浮き、あの彼岸から、こちらを覗き込んでいるように感じる。
 
実は、新しい部署もコーポレート部門だが、
部の使命を追うことが、誰かに捧げるのではなく、
個人の幸せにつながるように、働きをしたい。
 
こちらがあちらを覗くとき、あちらもこちらを覗いている。
ミイラ取りがミイラにならないよう、十分に気をつけたい。